shakeしずおか編集室の鈴木真弓です。4月24日オンエアの「かみかわ陽子のラジオシェイク」再録のつづきです。
(鈴木)第1回目のテーマですが、やはり『東日本大震災』。陽子さんは震災当日、どこにいらっしゃんたんですか?
(上川)3月11日ですね。ちょうど藁科川沿いの服機西に「ネクト」さんというお茶工場がありまして、そこで打ち合わせをしていたんです。「あ・・・揺れてる」とわかって外に出るか中にとどまるべきか、ちょっと迷ったんです。ずいぶん長く続いた横揺れに、「いつもとは違う地震だな」と感じました。
(鈴木)それほどハッキリ「揺れ」を感じられたんですね。
(上川)ええ、でもまさかその直後、東北地方の海岸を大津波が襲い、2万8千人ちかい死者行方不明者を出す大惨事になろうとは想像もつきませんでした。亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りし、被災者の皆様には心よりお見舞い申し上げます。そして現地で今なお救援活動や原発事故の対策にあたられている方々に、心からの感謝とエールをお送りしたいと思います。
(鈴木)その後、陽子さんは3月26日と4月16日に、呉服町スクランブル交差点で街頭募金を行ったんですよね。
(上川)ええ、2日間、多くの仲間と街頭に立たせていただきました。お預かりした寄付金で静岡県の水・ミネラルウォーターを150箱購入し、被災地に送らせていただきました。その話題はまた後でふれたいと思いますが、ちょうど1週間前の4月17日、福島県いわき市の被災現場を視察しました。2000年の衆議院選挙で初当選したときの同期生で親しくさせていただいている福島県選出の衆議院議員・吉野正芳先生に、地元いわき市の被災現場をご案内いただいたのです。
(鈴木)いわき市というのは、今、「地震・津波・放射能・風評被害」の四重苦に苦しむ被災地です。
(上川)大地震の後、吉野先生とは頻繁に連絡を取り合っていたのですが、余震が続き、4月11日にはM6の大きな余震に見舞われました。東京電力福島第一原発が“レベル7”に引き上げられた直後でしたので、私も(いわき行きを)ギリギリまで迷いました。しかし前日の夜、吉野先生からお電話で「今だからこそ現地を見て欲しい」と真剣に言われて迷いがふっきれ、決行したんです。真弓さんも同行してくれましたね、ありがとうございました。
(鈴木)私も、現地を今、見るべきだとその時感じました。
(上川)東京から車で約3時間、現地の吉野先生と合流したのは『南双葉復興センター』がオープンする式典の真っ最中でした。双葉地区というのは原発施設30キロ圏内の地域で、町民の多くが避難先に分散しているところです。
式典では「ふるさとを自分たちの力で復興する」ことを唯一の支えに、前に向かって進んでいこうと住民自ら立ちあがり、いわき市に復興センターを開設することになったという強い思いを、代表者のご挨拶がありました。目標を決めて進まないと、心がくじけてしまいそうな被災者の生の姿に触れた瞬間でした。
吉野先生に「静岡から来た友人」と紹介され、私も、大地震の危険と原発のある静岡県から来た者として、もしかしたら私たちの住む町も同じ状況になっていたかもしれないという思いで、被災者の方々のお立場にに寄りそい、応援し続けたいとご挨拶させていただきました。
(鈴木)その後、私たちは原発30キロ圏ギリギリのいわき市久之浜地区というところへまず向かいました。
(上川)一番初めに私たちが目にした被災の現場でしたね。建物はすべて破壊され、基礎だけが残り、あちこちに花がたむけられていました。震災前はここにふつうの暮らしが存在していたのかと思うと、本当に夢であってほしいと祈らざるを得ない現場でした。
(鈴木)いろいろな探し物をされている男性に偶然お会いしましたね。
(上川)電気屋さんのご主人で、手に「感謝」という言葉の額絵もお持ちでした。当日は二次被害も心配されたのですが、町の電気屋さんで多くの地域住民と顔なじみだったということもあったのでしょう、行方不明のおじいちゃんおばあちゃんを自ら命を顧みず捜索されたそうです。4歳のお子さんを発見し、おんぶをして助けたとおっしゃっていましたね。命がけで幼い命を救ったというお話に、本当に感謝の思いで一杯になりました。
(鈴木)ですから、あの男性が『感謝』という額絵をどんな思いで拾い上げたのかと思うと、こちらも胸がキューンとなりました。かける言葉がすぐに見つからなかったのですが・・・。
(上川)地域の中でふつうに暮らしていて突然大災害に襲われ、暮らしのすべてが根こそぎ奪われ、ひと月経っても状況が変わらないという事実は、あまりにも重かったです・・・。
(鈴木)それから我々は「道の駅よつくら」という施設を訪ねました。通りから鯉のぼりが見え、音楽が聞こえ、お客さんがふつうに買い物をされていたのでビックリしました。
(上川)5月の鯉のぼりを掲げ、ジャズバンドの生演奏もありましたね。(南双葉復興センターで聞いた)「自分たちの力で復興するんだ」という言葉がまさに実行されていた姿でした。連絡が取れなかった地域の人々同士が、あそこで再会することができて、思わず「よかった〜助かったんだね〜」「元気だった〜?」なんて声を掛けあっておられました。被災者同士の出会いの場にもなっていたのですね。
(鈴木)それから海岸沿いを50キロほど南下して各被災地を回ったのですが、中でも陽子さんにとって印象に残ったのは・・・?
(上川)体育館でガレキの中から取り出されたたくさんの遺品を見たときですね。入口のあたりで私が手に取ったのが、『12歳の思い出』という子どもの生い立ち日記でした。小学校は卒業するときにそういう日記を作るのですね。「お母さんから産まれた時、自分は体重何gだった」という書き出しから始まり、12年間の出来事をあれこれつづっていました。おそらくその日記の書き手も母親も亡くなったのでしょう。本当に涙なくしては見られませんでした。
(鈴木)本当に、陽子さん、ボロボロ泣いておられましたね。
(上川)それから結婚式の写真や家族旅行の写真などたくさんの思い出の品を見ましたが、その中に母子手帳があったんです。3人の子供の母子手帳で、まだ真新しい手帳でした。それを見つけた時のことを思い出すと、今でも涙が出てきます。
(鈴木)静岡からは摘みたてのみかん、上川事務所女性スタッフ手作りのラスクやマーマレードなどを持参し、最後に訪ねたいわき市勿来地区災害ボランティアセンターにお届けしました。
(上川)勿来地区のボランティアセンターには毎日100人ほどのボランティアが登録され、活動されていましたね。
最初にうかがった南双葉復興センターもそうですが、被災されたみなさんご自身が団結し、立ちあがろうとする姿に感動しました。そういう方々を応援する?これは静岡からも出来ることです。
現地には吉野先生のように昼夜たがわず尽力されている方がいらっしゃいますので、そういう方を通して被災地の要望をきめ細かくお聞きし、私たちにできることを精一杯実行し、全力で応援していきたい。被災地のみなさんが一日も早く自立できるよう応援したいと、心から思っています。