福島いわき被災地視察2〜原発30キロ圏ギリギリのまち
shakeしずおか編集室の鈴木真弓です。福島県いわき市視察レポートのつづきです。
実は福島行きが決まった後、いわき市を震源にM6の余震があったり、今回の原発事故がレベル7に指定されたため、上川事務所のスタッフも心配し、陽子さんもギリギリまで迷われたそうです。
前夜、吉野正芳先生から電話で、「今だからこそ、いわきの被災現場を見て欲しい」と真剣な声を聞き、迷いがふっきれたとのこと。そして最初に案内していただいた被災地が、
原発30キロ圏ギリギリに接するいわき市久之浜という港町でした。
道路上のガレキはきれいに片付けられ、車が出入りできるようになっていましたが、町はこの状態。3・11からひと月以上経っているとは思えない津波の生々しい痕跡が広がっていました。
最初に見たのは無残に寸断された橋。台風などで橋が崩れて寸断された現場は静岡県内でも見たことがありますが、多くは一般の人が立ち入らないよう進入禁止の規制線が張られていますよね。こんなふうに何の規制もなく、放置されたままの崩落現場に直接足を踏み入れるなんて、めったにないことです。
3・11からまったく時計が止まってしまった状態なんですね・・・。
防波堤に沿って家々が立ち並んでいたと思われる集落は、まるで戦場の後のよう。ところどころにコンクリートの家の基礎だけが残っていて、ここに家があっただろうと想像させるだけです。
花がたむけられていた場所では、遺体で発見された家主が、津波が到達する寸前の15時20分に、家の前を歩く姿が目撃されていたそうです。ほんとうに、寸前まで、自分が亡くな るなんてまったく想像もしていなかったのでしょう。
吉野先生がガレキの中で探し物をしている男性に声をかけました。男性は、「家財道具で唯一見つかったのがこれ」と、小さな額絵を見せてくれました。
震災当日は息子さんと一昼夜連絡がとれず、余震が続く中、火事も発生し、消防団さえ退去した中、危険を承知で近所の人々とともに捜し回り、倒木にすがり救助を待っていた子どもやお年寄りを何人も救ったそうです。その後、息子さんは職場にいて無事だったことが確認できたとか。
・・・男性が『感謝』という額絵をどんな思いで拾い上げたのか、想像するだけで目頭が熱くなってきました。
防波堤は、その頭上をいともカンタンに越えた巨大津波の威力に、無力さをさらけ出していました。
地区の一部は火事で黒こげになっていました。かろうじて家が倒壊せずに残っていたあるご夫婦が、「もう避難所にはいられない、今日(17日)から戻ってここで暮らす」と気丈に語っていました。
周囲は黒こげのガレキ、家の内部はめちゃめちゃ、ライフラインも復旧していないし、いつ余震や津波が来るかもわからないのに、我が家に戻るという決心をしたご夫婦の心情を、吉野さんは「避難所で、何もせず、ただ周囲に気を使って黙っていると、ロクなことを考えない。一分一秒でも早く、我が家で日常の暮らしに戻ることが被災者の救いなんです」と代弁されていました。
楽器店と思われる店の扉に、こんな貼り紙が貼られていました。
「5月よりピアノ教室再開します」
「もう一度 久之浜に音楽を♪」
「がんばっぺ!いわき」
原発から30キロ地点の、ガレキだらけの町の片隅で、悲しみをこらえながらも日常を取り戻そうと懸命に努力する人々がいます。
・・・陽子さんも、「現地に来なければわからなかった、来て本当に良かった」と実感されているようでした。
2011-4-22 7:54 ( 陽子日誌 )