かみかわ陽子のラジオシェイク第22回オンエア〜広島、長崎、静岡の戦災
8月21日(火)18時30分からFM−Hiでオンエアの内容です。
オープニング/高田梨加 陽子さん、こんばんは。
(上川)こんばんは。上川陽子です。
(高田)お盆休みが終わり、さあこれから夏休みの宿題を片付けなきゃ!なんてお子さんもいらっしゃるかもしれません。夏休みの宿題、と聞いて陽子さんはどんな思い出がありますか?
(上川)「あと何日で夏休みも終わり」、なんてところで、切羽詰まって宿題に取り組み始める、そんな苦い思い出ばかりです。
小学校の高学年の頃でしょうか。夏休みの特別の宿題のテーマに、『東海道の一里塚』を取り上げることにしました。東海道を歩いて、一里塚毎に絵を書いて感想をまとめ、マップ上に仕上げる。そこで、清水江尻辺りあたりから丸子路まで、東海道の旧道を弥次喜多さながらに、歩いた記憶があります。確か、父親に付き添ってもらったと思います。今でいえば、歴史探索ツアーですよね。結構楽しくて、たのもしい父親の印象が強く記憶に残っています。
(高田)お子さんの宿題を手伝ったなんて経験は?
(上川)それはあります!子どもの宿題で、親の方が結構楽しんだのは、暗闇を虫が明かりを求めて歩くというか、走る様子を記録すること。小麦粉なんかを箱の中に薄く識き、歩いた軌跡を記録するようなものだったと思います。科学の実験的なものは親にとっても結構のめり込んだりして。
(高田)宿題って、家族の絆を深める目的もあるみたいですね。ではここからは聞き手のコピーライター鈴木真弓さんにバトンタッチいたします。
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(上川)改めまして、リスナーのみなさん、こんばんは。上川陽子です。
(鈴木)コピーライターの鈴木真弓です。どうぞよろしくお願いいたします。
(上川)8月というのは多くのみなさんがサマーバケーション気分で過ごされていると思いますが、8月は日本人にとって特別な月でもありますね。今日は、8月だからこそ、きちんと考えておきたい戦争のことを話題にしようと思います。
(鈴木)たしかに。8月って夏休み真っただ中であり、お盆の時期でもあり、原爆が落ちて敗戦を受け入れたという、きわめて複雑な月ですね。
(上川)真弓さんは広島の原爆資料館に行ったことありますか?
(鈴木)はい、最初は高校の修学旅行で。最近は広島へ取材でちょくちょく行くので、平和記念公園には必ずと言っていいほど立ち寄ります。やはり特別な場所ですね。
(上川)私が初めて広島を訪れたのは小学生のとき、家族旅行で行きました。当時は、まだ新幹線もなかった時代でしたので、夜行列車に乗った記憶があります。原爆の街、広島の強烈な印象は、猛烈な熱線によって階段のところに人影が茶褐色になっている場面を見たときです。
一瞬のうちに人が影のようになってしまったことを、子ども心に想像することも、理解することもできず、その記憶が今でも強く残っています。原爆ドームの建物も、阿鼻叫喚のさまざまな記録も、記憶も、日常使っていた数々の品々も、その持ち主とともに一瞬のうちに失われてしまった、あの悲劇は衝撃とともに記憶の中に深く残っています。
(鈴木)私が印象的だったのは、平和記念公園の中に学徒動員慰霊塔というのがありまして、犠牲者を出した青森から沖縄まで39都府県347校の国民学校高等科、中学校、高等女学校の校名が記されていました。数が一番多いのは広島県ですが、2番目に多かったのが静岡県でした。この2県が突出して多かったんです。ビックリしました。
(上川)夫の父は、広島市出身で、原爆投下の時期、呉の海軍造船所の設計技師をしていました。原爆投下は8月6日月曜日朝の8時ごろ。父は早めに出勤していたのでしょう。今は他界した父の日記の8月10日欄に、8月6日の原爆投下の記録が残されています。読ませていただきます。
父の日記から、「広島市最後の日(八月六日) 八月十日記」
その朝自分は事務机に寄って本を読んでいた。非常に疲れたという感じと眠気が十分取れていなかったため、幾度か読書は同じ行を行き戻りして憔悴した気持ちになっていた(注:連日連夜、米軍機の空襲に晒されていたことによる疲れらしい)。
後で聞くと八時十五分であったという。ほとんど眠りに落ちており、薄暗い視界は突如紫電のごとき白光に見舞われて愕然とした。眠気も吹っ飛んでしまう。無意識的に腰掛を後ろに回すと窓下一面に碧緑の呉湾とその向こうの山々である。その山の彼方で雷(いかずち)のような赤白い光が二度続いて閃いた。白い雲と黒い入道雲のような煙がその光の下からもくもく湧いて彼方の天を覆った。天応辺り(注:呉市天応町)の火薬庫でも爆発したものと思った。
今朝は一寸警戒警報に入っただけで敵機は無く解除になっていた。一分も過ぎたかと思う頃、爆風が窓にあふれて飛び込んできたので二度びっくりさせられた。後から次第に確実な情報が入ってきた。それは聞くたびに痛ましさが増していく水郷広島市の惨害であった。幼くして見慣れた豊かな広島市が刹那的に(注:一瞬にして、の意味)多数市民の精霊と共に壊滅していったとは今も信ずることができない。」
(鈴木)・・・状況が目に浮かんでくるようです。実際に体験された方でしか書けない描写ですね。
(上川)その後、中学の修学旅行で広島を訪問したり、大人になってからも、家族旅行で広島に出かけましたが、子どもの頃の印象があまりに強烈で、その印象を上回るものではありませんでした。政治家になってから、選挙の応援に広島に出かけることもありました。広島は見事に復興し、平和な街に変貌しましたが、やはり、繁華街で街頭演説をしていても、他の都市に応援に行った時とはちょっと異なる、特別な感覚、不思議な感覚がありました。
(鈴木)長崎にも修学旅行で行きましたが、陽子さんはどんな思いがありますか?
(上川)長崎には、高3の修学旅行が初めてでした。石段の多い街で、浦上天主堂やグラバー亭から見た長崎の町など、異国情緒のある街並みが印象的でした。
「長崎の鐘」という歌、ご存じですか? 私、大好きな歌なんでです。この歌は、作詞がサトウハチローさん、作曲が古関裕而さんによる大ヒット曲ですが、終戦直後永井隆さんが書かれた随筆『長崎の鐘』をモチーフにしています。
(鈴木)どういう方ですか?
(上川)永井隆さんは長崎医科大学の付属病院で被爆されながらも、被ばく直後から、負傷者の救護や原爆障害の研究に献身的に取り組まれ、その後活動は、長崎の町と文化の復興、そして平和の願いへと広がっていきました。 被爆以前から患っていた白血病が次第に悪化、病床についてからも執筆活動を通して実践活動を貫き、被爆から6年、その生命を平和への切実な祈りとしてつぎ込んだ方です。『長崎の鐘』を執筆されたのが1946年、その後1949年出版、一躍ベストセラーになりました。
(鈴木)終戦直後に書かれたんですね。
(上川)古関版「長崎の鐘」の歌詞には、原爆を直接描写した部分は全くありあませんが、それは当時米軍の検閲をはばかったものと言われています。サトウハチローの詞は単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌であり、打ちひしがれた人々のために再起を願った詞であり、今も私たちの心を強く揺さぶるものです。藤山一郎さんが、格調高く美しく歌い上げたあの歌声を思い出しながら、私もときどき歌わせていただいています。
(鈴木)歌の力というのは得難いものですね。
(上川)瀕死の重傷を負った日本という国が、復興へと歩み始める。その頃の人々を励ます歌の一つが「長崎の鐘」だったんです。藤山一郎さんの歌声がでラジオに流れ、独特の宗教的雰囲気とともに戦災に打ちひしがれた人々をなぐさめ、励まし、復興へと奮い立たせていったのでしょう。東日本大震災に際しても、全国から多くの歌が寄せられているのを聴くと、歌の持つ力の大きさを感じます。
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(鈴木)さて、後半は、静岡の戦争の爪痕についてうかがいたいと思います。毎年6月に賤機山の山頂で、日米合同慰霊祭というのが執り行われています。今年は陽子さんも出席されたんですよね、どんな慰霊祭なんですか?
(上川)静岡でこういう慰霊祭が行われていることを、多くの市民はあまりご存じないかもしれませんね。1945年6月の静岡空襲では、静岡市民約2千人が犠牲になり、その慰霊に安倍川花火大会が始まったというお話は先月しましたが、実はこのとき、米軍B29爆撃機が墜落し、アメリカ兵23人も亡くなっていたんです。これを追悼する第40回日米合同慰霊祭が、今年は6月16日に賤機山山頂で営まれました。静岡市の戦災遺族会会員や自衛隊関係者のほか、米軍横田基地の軍人ら200人以上が参列し、慰霊碑の前に並んで焼香しました。B29の墜落現場で見つかった搭乗員の遺品の水筒にバーボンウイスキーを入れ、慰霊碑への献酒も行ったんですよ。
(鈴木)・・・何か映画になりそうな光景ですね。かつての敵国同士が合同で慰霊祭をするって珍しいのではありませんか?
(上川)戦時中の記憶を持つ世代の方々にとっては複雑な思いをされるでしょう。慰霊祭を主催するのは東草深町の菅野医院の菅野寛也先生(78)です。先生は昨年12月にハワイのパールハーバーで行われた真珠湾攻撃開戦70周年式典にも出席されたそうです。このとき感じたことを慰霊祭でのご挨拶でも触れて、「世界平和には日米両国の友好関係が一番大事。この慰霊祭が世界平和の一歩となることを祈っています」と心を込めておっしゃっておられました。
(鈴木)どんなきっかけで慰霊碑を建てられたんですか?
(上川)静岡市の中心部がはじめてB29の空襲をうけたのは1944年12月7日でした。実はその日の午後、伊勢湾沖を震源とする東南海地震が発生したんですよ。戦時中だったので正確な震度はわからないようですが、マグニチュード8クラス、震度6から7という東日本大震災に匹敵する巨大地震ですね。静岡市でも大きな被害がありましたが、なんと、その日の夜にB29が長沼地区に焼夷弾を投下し、工場や鉄工所、農家などを焼き尽くしました。
(鈴木)信じられない、とんでもないダブルパンチですねえ・・・。
(上川)翌年1945年になると空襲は激しさを増していきました。4月頃から三菱や住友の軍需工場が襲われ、工場生産に大きな打撃があり、周辺の民家や住民も巻き添えとなっていったんですね。空襲は都市無差別爆撃に変わり、5月24日未明には静岡市の北西部が焼夷弾攻撃されて、40人ほどの死者がでました。
6月19日深夜から翌日未明にかけては、120機以上のB29が来襲、波状攻撃を繰り返し、静岡の市街はまたたくまに火の海となり、この夜、死者は1600人をこえた記録されています。この空襲の最中、2機のB29が墜落したのです。1機は向敷地の河原と山林に墜落して爆破し、もう1機は二つに折れて安西と田町に落ちたんです。どうも2機は空中衝突したようなんですね。
6月19日深夜から翌日未明にかけては、120機以上のB29が来襲、波状攻撃を繰り返し、静岡の市街はまたたくまに火の海となり、この夜、死者は1600人をこえた記録されています。この空襲の最中、2機のB29が墜落したのです。1機は向敷地の河原と山林に墜落して爆破し、もう1機は二つに折れて安西と田町に落ちたんです。どうも2機は空中衝突したようなんですね。
(鈴木)うわ、街中に落ちたんですね・・・。
(上川)安西と田町に墜落したB29の搭乗員の黒こげの遺体を安倍川まで引きずり出して、石を投げつけたり棒で叩いたりする市民もいたそうです。空襲の被害に遭った市民感情からしたら、無理からぬことかもしれませんね。そんなとき、田町の墜落現場となった魚長という料理店の親戚で、篤志家の伊藤福松さんという人が、「死んでしまえば敵も味方もない」として、亡くなった搭乗員の霊を弔い、水筒を保管し、後に自宅の敷地に慰霊碑を建てたのです。この慰霊碑が賎機山公園の山頂に写されて、戦災犠牲者を慰霊する観音像とともに慰霊祭を行うようになったそうです。
伊藤さんや菅原さんのような、人間の命や尊厳に対し、高い志を持たれた市民がこの町にいるということを知っただけで、本当に涙が出る思いがしました。来年はぜひ、浅間山の頂上にのぼっていただき、多くの方に慰霊祭にご参加いただきたいと思います。
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(鈴木)インターネットの調査で、日本がアメリカと戦争していたことを知らない世代が増えていると聞いています。その意味でも、今日のお話は大変印象に残る回になりました。
(上川)真弓さんは、わたしより10歳お若いのですが、ご家族で戦争との関わりがおありですか。
(鈴木)私の母方の祖父が戦死していますので、小さい頃、護国神社の御霊祭りに行った記憶があります。弟の名前も、護国神社からとって「護」というんです。戦争は遠い過去の歴史の出来事ではなく、今につながっているとつくづく感じます。
(上川)護国神社の御霊祭も、年々参加者が減って来ていると聞きます。静岡が空襲と大震災に同時に襲われた12月7日、B29も墜落した静岡大空襲の6月19日、広島長崎の原爆の日、そして8月15日・・・こういう日付けだけでも記憶に刻んでおかねばと思います。そろそろお時間になりました。最後までおつきあいくださったリスナーのみなさま、本当にありがとうございました。それでは、次回までごきげんよう。
*次回は9月4日のオンエアです。
2012-8-21 12:49 ( FMHi かみかわ陽子のラジオシェイク / 新着情報 )