かみかわ陽子のラジオシェイク第20回オンエア〜安倍川花火と夏祭り

 7月17日(火)18時30分から19時までFM−Hiでオンエアされた内容をご紹介します。

 

 

 

オープニング/高田梨加

陽子さん、こんばんは。


 

(上川)こんばんは。上川陽子です。


 

(高田)昨日16日は海の日でしたね。本格的なマリンレジャーシーズンの到来です。陽子さんはお小さい頃、海水浴なんか行かれました?


 

 (上川)榛原にある静波海水浴場に家族みんなで海水浴に行った記憶が一番古いでしょうか。大きな深い海の波のまにまに、浮き輪の中で浮いている感覚を覚えています。
 結婚してからの記憶では、子どもを連れて夫の実家の下関に帰ったとき、義父や義母と一緒に車で一時間の日本海側の美しい浜辺に出かけました。遠浅の波打ち際で子どもたちが元気に水と遊ぶといった光景でしたが、太平洋に面した静岡の浜辺とは別世界、のどかで静かで、海水浴も浜辺の印象でこんなにも違うんだとびっくりしました。


 

(高田)静岡市内では、海水浴ができる海岸が三保内浜、三保真崎、用宗と3箇所ありますね。


 

(上川)毎年海水浴シーズンの前に静岡県による水質検査が行われます。今年は5月7日に水質検査、5月24日に放射性物質濃度検査がそれぞれ行われました。
 水質検査は主に大腸菌と油膜の含有量を調べ、その結果にもとづき4段階で評価されます。最も良いのがダブルA、次いでシングルA、B、Cと分けられます。今年市内3カ所の海水浴場はいずれも問題なし。用宗海岸は二年連続ダブルAのお墨付きを得ています。


 

高田)もともと用宗海岸は県内屈指の水質の良さで知られていますが、ちゃんとしたデータでも裏付けされているんですね。


 

(上川)水質に関しては、静岡県内すべての海水浴場がダブルAもしくはシングルAでした。放射性セシウムも検出限界未満です。県のホームページで確認できますから、安心して海水浴を楽しんでいただきたいと思います。


 

(高田)そういうデータが公開されているならちゃんとチェックして、静岡の、豊かで美しい海の恵を大切にしようって思いを共有したいですね。ではここからは聞き手のコピーライター鈴木真弓さんにバトンタッチいたします。


 

 


 

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(上川)改めまして、リスナーのみなさん、こんばんは。上川陽子です。


 

(鈴木)コピーライターの鈴木真弓です。どうぞよろしくお願いいたします。さあ、夏本番、各地で夏祭りや花火大会が始まっていますね。


 

(上川)昨年は震災の影響で夏のイベントもいくつか中止・縮小になりましたね。イベント自粛に関しては賛否両論ありましたが、被災地を思いやり、犠牲者への慰霊に尽くしたいという日本人の、ある意味とても日本人らしい判断だったかな、と思います。その分今年は、復興への活力と地域の絆を見直す意味で大いに盛り上がっているようですね。


 

(鈴木)静岡市民の夏のビッグイベントといえば、7月28日土曜日に予定されている安倍川花火大会です。


 

(上川)そうですね、安倍川花火も、昨年はいっとき中止が決定しましたが、震災犠牲者を弔う意味で、規模を縮小して、無事開催されました。


 

(鈴木)ちょっと調べてみたんですが、安倍川花火大会のルーツをたどると、大正時代、本通りに住んでいた小田万蔵という指物師が、関東大震災で亡くなった修業先の親方や同僚を慰霊しようと記念碑を建て、花火を打ち上げたという記録が残っているんですね。

 震災供養塔をなぜ安倍川に建てるんだって反対者も結構いたそうですが、市内の篤志家や駒形の感応寺のご住職以下、日蓮宗の関係者が賛同し、ご本山の身延山久遠寺81世日布上人が「南妙法蓮華経関東震災横死者供養塔」という文字を書いてくださり、立派な供養塔が建ちました。大正14年9月1日に安倍川河川敷でお披露目され、記念に花火が上がった、ということです。


 

(上川)大変意義深いエピソードですねえ。安倍川花火大会は今年で59回目を迎えますが、59年前の第1回というのは、昭和28年8月、第1回東海花火大会という名称で執り行われました。きっかけは戦後復興の願いを込めた市民の町おこしでした。静岡市は昭和20年6月の静岡大空襲で多くの貴い命が失われ、約2千人の空襲犠牲者が安倍川河川敷で火葬にされたんですね。


 

(鈴木)安倍川の河原はそういう場所だったんですか・・・。


 

(上川)戦争が終わって昭和22年ぐらいから、市内各地で戦後の復活祭と銘打った市民行事が行われるようになったそうです。安倍川の周辺地域でも、戦没者を弔い、地域の商店街の賑わいを取り戻そうと、静岡市西部商店街発展会という商店街組織が音頭を取って、昭和28年8月、第1回東海花火大会としてスタートしたのです。


 

(鈴木)私、安倍川花火大会って市の行事だと思っていたんですが、地元の復興を願った地域のお祭りだったんですね。


 

(上川)第1回は西部商店街発展会が20万円の募金を集めて、観光行事として行ったそうです。第2回・第3回は、地場産業である木工業者さんたちが協力してくれて、木工祭花火大会という名称で、駿府公園のお堀の中で開催されたんですよ。


 

(鈴木)駿府公園で!そうだったんですか!


 

(上川)第4回から安倍川花火大会という名称で、安倍川河川敷に会場を戻し、新通学区の協力を得て開かれるようになりました。第5回からは田町学区、長田北学区、長田東学区という安倍川を挟んだ各学区も加わり、全部で5学区の協力のもと、夏の一大行事として盛大に開かれるようになりました。
 今も安倍川花火大会の実行委員会は5学区協働の自治組織で、大会実行委員長は、静岡市自治会連合会長の市川源一さんです。


 

(鈴木)確か安倍川花火大会って、60〜70万人来ますよね。地域のお祭りの規模じゃないですよ・・・。


 

(上川)市民組織で運営する安倍川花火大会実行委員会というのは、全国的に見ても稀な組織です。その基盤を作られた初代会長の蒔田忠兵衛さん、さらに、第6回から35回まで指揮を取った3代目会長の酒井源太郎さんが今の安倍川花火大会を盤石なものにしたそうです。私は20年前に静岡へ戻って来てから、安倍川花火大会の運営アドバイザーとしてずっと関わってきましてね、歴代会長や幹部のみなさんのご苦労をそばで見てきました。


 

(鈴木)市は一体、どんな関わり方をしているんですか?


 

(上川)市は補助金を出し、警察など関係機関との調整をサポートする、という立場ですね。主体はあくまでも市民です。考えてみてください。見物客が数十万単位というお祭りですから、たとえばゴミの量なんかもハンパじゃありませんよね。
 前に、長田から河川敷の大会本部、そして事務所のある七間町まで歩いて一往復しことがありますが、時間を追うごとに道路端にみるみるゴミがたまるんです。これは後片付けに相当苦労するなあと思ったら、大会終了直後から実行委員会の皆さんが一斉に片付けを始め、翌朝は5時ごろから関係者が清掃を始め、6時頃からは地元の中学生たちもボランティア清掃をして、まっさらな状態に戻すんですね。その市民パワーたるや、ものすごい力だと、心底感心しました。


 

(鈴木)そうか、地元の市民の協力なしでは実現できない規模の大会なんですね。


 

(上川)行政主催のイベントだったら、清掃業者を入札で選んで・・・なんて余計な予算をかけてやっていたかもしれませんよ。打ち上げ花火のスポンサーを探すのだって、お役所では対処しきれないでしょう。


 

(鈴木)景気が悪くなってから、どこの花火大会も、大がかりな尺玉やスターマインを上げてくれるスポンサーが減ってしまったと聞きますね。


 

(上川)ええ、ですから、安倍川花火大会が始まった経緯や、継続させる意義をきちんと見直す、という意味で、6年前から静岡市仏教会の協力で、大会前の戦没者慰霊祭というのが始まりました。昨年は震災犠牲者を弔うという貴い使命も加わりました。今年も同様に執り行われると思います。


 

(鈴木)陽子さんご自身は、何か実際に協力されていますか?


 

(上川)実は何年か前、連合会等の地域団体5カ所の女性部にお声掛けをして、「安倍川花火を盛り上げ隊」というのを結成しましてね、花火が打ち上がる1時間ぐらい前に、おそろいのTシャツを着て踊りを披露したことがありました。


 

(鈴木)おお、やっぱり踊り!(笑)。


 

(上川)大勢のダンサーで盛り上げようと思ったんですが、夏休みシーズンで人を集めるのに苦労しましてね、花火が特等席で観られるよって誘い文句で集めようとも思ったんですが、実行委員会によけいな負担をかけることになりそうだったので、出来る範囲でやらせてもらいました。


 

(鈴木)さあ、7月28日土曜日の安倍川花火大会、日本を元気に!東日本大震災復興祈念 真夏の夜空を彩ります!〜をキャッチフレーズに、尺玉、大仕掛け、大スターマインなど約1万5千発が打ち上がる予定です。花火大会に先立ち、14時からは戦没者供養祭が行われ、東北の震災犠牲者の慰霊行事も行います。詳しくは大会本部、電話/054-221-7199までお問い合わせください。


 

 


 

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(鈴木)さて、安倍川花火のルーツをもう少し探ってみたいんですが、なんでも、江戸時代の『駿府名細記』という記録に、「7月26日夜、安弁(あべ)河原花火あり。8月朔日(ついたち)まで町により出すなり」とあり、『駿国雑志』の年中行事7月26日の項に「今宵二十六夜待ち有り。安弁河原に於いて大花火揚げ有り。見物の諸人群をなせり。もと月を待つ間の遊戯也」とあります。つまり江戸時代から安倍川で花火が打ち上げられていて、お月さまが出るのを待つ間の余興だったということがわかります。


 

(上川)風流ですねえ。もともと静岡というのは花火の盛んな土地柄のようで、曲金あたりに花火師さんが多く住んでいたそうです。安倍川のみならず、軍神社、八幡神社、清水公園等の花火大会も盛大ですよね。軍神社やきよみずさんは、安倍川よりも規模が大きかった時代もあったそうですよ。


 

(鈴木)私は実家が横内学区だったので、清水さんの花火に一番親しんできました。今住んでいる城北学区では、岳美・唐瀬・唐瀬通りの3町合同の花火大会が8月にあります。


 

(上川)8月に入ると、各地域で夏祭りが目白押しですね。花火は清水の港まつり海上花火大会が有名ですが、長尾川の手筒花火大会、富厚里の揚げ灯篭なんかも見応えがありますよ。


 

(鈴木)揚げ灯篭というのは?


 

(上川)運動会の玉入れみたいに、火の玉を投げ入れて打ち上げるロケット花火です。中藁科地区に昔から伝わる伝統花火で、戦時中はいっとき中止になりましたが、昭和50年代に復活し、今も8月のお盆の夏祭りで披露されます。服織地区から手筒花火が飛び入り参加する年もあったそうですよ。


 

(鈴木)へえ面白いですねえ、安倍川や清水みなとの大規模な花火大会ばかりに目が行きがちですが、地区に伝わるユニークな伝統花火の魅力も捨てがたいですねえ。


 

(上川)地区の若者にとって、昔は、花火の技を競い合う楽しみもあったようですね。静岡の町の花火師を招いて盛大に上げたり、隣り村の花火の評判がよければ、おれたちも負けられない!というふうにね。もともと花火は徳川時代に若者たちが砲術・火術の秘法を守り、年に一度のハレ舞台として伝えてきたんですね。


 

(鈴木)花火を上げるというハレ舞台があることで、若者たちが結束し、地区が活気づいていた時代もあったんですね。消防団のような自治組織も、そういう力がうまく機能していたんじゃないでしょうか。


 

(上川)まさに、地域の絆の結晶ですね。線香花火のような小さな花火も、じっと息を潜めて最後まで線香の球がポロリと落ちるまで見守り続けていた時の感激が、長く記憶に残っていると同じように、地域の花火もそこで暮らす生活の記憶として残るように長く続けていってほしいと思います。


 

 


 

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(鈴木)今日は花火の話で盛り上がってしまいました。花火って華やかですが、一瞬で消えて真っ暗になるというのが、どこかはかなげですね。


 

(上川)そうですね。軍神社などで花火が打ち上げられるのも、鎮魂のお祭りだからという面もあると思います。
 以前、新聞で紹介されていた記事ですが、在るご老人が花火大会の準備でにぎわう安倍川の河川敷を眺めて「初めは空襲で死んだ人の川供養だといって上げたんだけどな」とポツリつぶやいた。その方は静岡空襲の焼跡で、甥っ子さんの遺体を抱いて男泣きした経験をお持ちだったそうです。安倍川の花火がそんな悲しい記憶と結びつく世代は年々少なくなっているでしょうが、華やかな一面、そういう歴史もあるということを忘れてはいけない、と思いますね。


 

(鈴木)本当にそうですね。今日は花火について貴重な勉強をさせていただきました。さて、花火がなくても盛り上がる楽しい夏祭り、静岡にはたくさんありますよね。陽子さんがいつも行かれるお祭りをいくつか教えてください。


 

(上川)数えきれないくらい、夏は盆おどりのはしごをします。有東木の盆踊りなどは、無形文化財となっている踊りも、ぜひ踊っていただきたいと思います。


 

(鈴木)各お祭り会場で陽子さんを見かけたら、ぜひお声掛けしてくださいね。


 

(上川)ぜひ一緒に踊りましょうね。さて、そろそろお時間になりました。最後までおつきあいくださったリスナーのみなさま、本当にありがとうございました。それでは、次回までごきげんよう。

 

*次回は8月7日放送予定です。
 

 


 

          
 
 



 

 
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