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かみかわ陽子

論文・対談・投稿・マスコミ

本年5月、ウシオ電機(株)代表取締役会長で経済同友会特別顧問でもいらっしゃる牛尾治朗さんと雑誌「味の手帖」で対談させていただきました。私の懐かしい写真なども織り込みながら、対談の内容を抜粋してご紹介いたします。

「味の手帖」 2008年8月号(抜粋)

牛尾治朗対談

上 川 陽 子

女性議員であることに誇りを持つ

「全国のおかあちゃん」になりたい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

牛尾 ようこそいらっしゃいました。

上川 お招きいただきまして、ありがとうございます。

牛尾 上川さんは現在、政治家としてご活躍なさっていらっしゃいますが、上川家にとっては初代なのですか。

上川 そうです。政治にはまったく縁がない家でした。

牛尾 ご両親やご親戚の中にもまったくいらっしゃらず、あなたが突如政治家になられたんですね。

上川 はい。

牛尾 男性議員は世襲の人が多いですから、いよいよ新しいタイプの政治家が出てきたということになりますね。

 大学は東京大学のご出身でいらっしゃいますが、教養学部にいらしたのですか。

上川 教養学部教養学科で、国際関係論を専攻しました。

牛尾 大学で国際関係論を選ばれたときから、やがて政治家になろうという志がおありだったのですか。

上川 いえ、まったくございませんでした。高校生のときには外交官になりたいとか、いろいろな可能性を考えましたが、パブリックポリシーに非常に興味があって、大学で国際関係論を専攻し、最終的には研究所に入って、パブリックポリシーのお手伝いをしようと思ったんです。

牛尾 三菱総合研究所に入られたんですね。パブリックポリシーというのは日本語にはありませんね。

上川 まあ公共政策ということになります、いわゆる公共事業的ではなくて…。

牛尾 そうなりますね。

ケネディスクールへ留学

上川 三菱総研に入ったものの、シンクタンクでは、パブリックポリシーをつくることのお手伝いはするのですが、決定ができないんですね。

牛尾 そうですね。

上川 そこで、決定するところの部分に近寄ったコンサルテーションの仕事をしたいと思ったんです。政策を政治家たちと一緒につくっていくタイプのビジネスをしたくて、グローバリンク総合研究所をつくりました。政治のベンチャーです。

牛尾 三菱総研を辞められてからですか?

上川 はい。

牛尾 それは大変でしたでしょう。

上川 ええ。でも、三菱総研の仲間たちがずいぶんサポートしてくれました。

牛尾 注文がとれないとだめでしょう?

上川 それで営業をしたんですが、少し時期が早かったんですね。お金にならないんです。官僚がポリシーメーキングのマシンですから。しかし、機能としては絶対必要な部分だと思ったんです。官僚の組織と選択可能なもう一つの政策立案のメカニズムをつくらない限り日本は強くなれないと思いまして。

牛尾 それは制度面でということですね。

上川 ところが仕事にならない。そこで、ちょうどその時代はIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の地球温暖化対策の入口のところでしたので、地球環境問題について官庁の研究調査のお手伝いをしました。

牛尾 1990年代ですね。

上川 そうです。あと、企業コンサルティングもしました。そんなに大きな仕事をしたわけではないのですが、それでも頑張って、けっこう受注がありました。

牛尾 どれぐらいなさったのですか。

上川 11年です。

牛尾 そんなになさったのですか。

上川 アーバンプランニングではありませんが、汐留の再開発の仕事もしました。

牛尾 いろいろなことをされたんですね。その経験が、いま政治家になられて役立っているのではないですか。そういった調査をするネットワークが全ておわかりになるわけだから。

上川 そうですね。

牛尾 僕も社会工学研究所というシンクタンクをやっておりましたからわかりますが、シンクタンクはやっていると勉強になりますね。

上川 環境政策のレポートなども、通産省の書棚に並ぶわけですね。でも、それが実際に役に立ったかどうかというのはまったく別の話ですから、もっと意思決定に近いところまでいかないと、大学時代に目指したパブリックポリシーに関わる仕事は完結しない、そのためには政治というものがとても大事だということがわかってきたんですね。日本の社会というのは政治に関わらないと何も変わらないのだと?。そう思い始めた時期に、ちょうど自民党の中の宮澤政権に反対する動きがテレビで報じられたんです。それを見ているうちに、自分も政治をやってみたいと思うようになりました。

牛尾 ハーバード大学のケネディスクールに留学されていらっしゃいますが、そこでは何を勉強されたのですか。

上川 三菱総研におりましたときの私のテーマの一つが情報化でした。当時はまだこんなにオンラインネットワークができあがっていない時代で、国境を越えた情報流通、「TDF」(トランスボーダー・データ・フロー)というのですが、そのテーマを扱っていました。紙媒体からペーパーレスになるときに、情報の価値をどのように評価するのかとか、知的所有権、いまは知財といいますけれども、その特許法の改正などにも関わりました。

 TDFについてはすでに、アメリカが1970年代に「オープンスカイポリシー」に代表される一連の規制改革を実施し、成功していました。そうしたアメリカの政策に日本が追随して、10年遅れぐらいでやっていたということもあり、「私がいくら日本で頑張っても、アメリカの実情を十分理解できないまま、単に模倣するだけに終わってしまうのではないか。アメリカ社会の中でどうしてそういうニーズが生まれてきたのか。やはりアメリカに行き、現場主義で見ないといい政策提言ができないのではないか」と?。

牛尾 あなたが入られた頃は、まだケネディスクールが新しい時分でしょう。初めは規模が小さかったですね。

上川 そうです。新しくて、日本人女性は私が初めてでした。

牛尾 政治に出ようと思われたのは日本に帰って来られてからですね。

上川 ええ。

家族総出で取り組んだ選挙活動

上川 高校を卒業し、東京に来て、四十歳のときに政治の世界に入ることを決断し、静岡に戻りました。それから3年後に1回目の選挙でした。

牛尾 資料を拝見しますと、お嬢さんが大変協力されたようですね。

上川 子供が親のことで頭を下げるという場面は普通ございませんでしょう。ほんとうにそれは感無量の思いで…。

牛尾 政治家というのは零細企業のようなものですから、一家でやらないと経営できないのですよ。海外に住んでいる家族もまた、やはり一家が団結して家を守って助け合わないといけない。海外生活と政治家というのは家族の絆ができるんですね。

上川 そうですね。大きな集会で私が鉢巻をして壇上に立ちますと、娘も鉢巻をして「母をよろしくお願いします」と。その一言を聞くと、何か涙が出てきてしまいます。

彼女も初めてのことで、ほんとうに頑張りました。男性議員の場合は奥さんがいろいろなことをなさるのでしょうけれども、夫は銀行員で参加できないので、娘がその代わりに。父も母も協力してくれましたし、零細企業までもいかないような家内労働で…。

牛尾 ですから家族の関係が変わってきますね。初代の人が政治家になるときはみなさん、素人ですから。

上川 おっしゃるとおり素人でした。

牛尾 女性はその点、素人性を保てるのですね。

上川 素人だったからできたのかもしれません。

牛尾 そうだと思いますね。激戦区ですものね、静岡1区は。

上川 1回目は無所属で挑戦したんですが落選し、2回目の選挙のときも結局は政党の公認が得られないまま、無所属での初当選でした。 

 政治というのは、まず公認をもらえるかどうか、つまり、候補者として社会的に認められるための儀式があって、その壁をまず飛び越えなければいけないということ。候補者になるのも大変なのだと、そんなこともまるで知らず、とにかくやると言ってドーンと出たものですから、たぶん周りはちょっと変な人と思ったのではないでしょうか(笑)。私は静岡雙葉学園という女子校の出身なものですから、お嬢さんの気まぐれで、落選したらすぐにやめるのだろうというような冷ややかな声もあったようです。

牛尾 静岡に戻られて3年準備して、1回目はだめで、2回目に通られたのですね。

上川 スタートしてから初当選まで七年半かかりました。ほんとうに草の根の一人一人にお願いして、運動体としては完全な市民運動ですね。支援者のみなさんとの触れあいや絆なくしていまの私はないと思っています。

牛尾 それは強いですね。40代というのは、知力と体力と判断力が総合的に高いときですね。

上川 もう無我夢中でした。私のところは、まだその頃は政令市になっておりませんでしたが、日本アルプスの山奥から、それこそシラスが揚がる海岸まで範囲が広くて、日本の縮図というような都市なんですよ。いろいろな方とお会いすることになって選挙運動を通して、いかに狭い世界で自分が生きてきたのかということを思い知らされました。

上川 平成16年に自民党の女性局長を務めました。そのとき結党50年の記念事業として、女性局独自の政策を打ち出そうと、テーマに少子化を掲げたんです。全国の女性党員の力を結集して動かすことができるやり方は何かと考え、全国的なアンケート調査を実施し、その結果を「子どもHappyプロジェクト」として発表しました。さらに国の予算に反映させるため政策提言をまとめました。

 女性局のみなさんにはそうした活動を代々受け継いでいただいています。また、女性党員のみなさんも、自分たちの要望を通すことができる、自分たちも政策に関われるのだという自信、あるいは選挙運動と政策提言をミックスして動くことができる、ということが認識できたのではないかと思います。

牛尾 それは素晴らしいですね。

上川 そういった意味で女性局の改革に少しばかり貢献しました。

ドバイで活躍する日本人

牛尾 最近、中東に行かれたそうですね。

上川 ええ、5月にオマーンとドバイに行ってきました。ドバイに行ってびっくりしたのは、いまは大変開発が盛んで、まるで世界中のマネーを全部吸収しているような印象なのですけれども、日本の企業が海岸線に島をつくる事業に参加しているんです。

牛尾 全部人工の島ですね。

上川 やしの木の形をした「パーム・ジュメイラ」という島で、そのような島がこれから二つか三つできる計画なのですが、一つの島が百万都市になるというんです。ドバイの海岸線をつきぬけるメインの地下鉄工事を日本企業がやっていて、45駅あるその一つずつにショッピングセンターをつくると。2009年9月9日9時9分に運転開始するそうで、ドバイ開発の中でも注目されていました。

牛尾 あそこには日本の企業も進出していますし、さまざまな工事の現場監督や設計にも日本人が携わっていて、ホテルの基本的なマネージメントにも2千人ほどの日本人の女性がいるそうです。多くの日本人女性が、ドバイや香港などに行っていますよ。自分の力で就職して、重要な役割を果たしています。

上川 中東という、日本とは文化が大きく異なるところで日本人がプロジェクトに参加し、またあれほど活躍していることに大変驚きましたし、感動しました。

牛尾 ドバイにはどちらかというと中堅企業がたくさん行っていますが、これもすごいことだと思っています。中堅企業がプライベートプレーンを持って往復して、いろいろな大きな注文を取ってきている。その一方で女性は自ら現地に飛んで就職しているんですね。向こうで働いている比率は女性が7割くらいを占めるのではないでしょうか。

上川 聞くところによると、いま若い世代の男性は海外に出たがらないという話ですね。

ほんとうの意味での豊かさ

上川 日本としてはこれまで石油資源中心の外交でしたけれども、これからは重層的な外交をしていこうということで、女性の切り口も大事にしながら、つながりを強めていきたいと考えています。中東は遠いと思っていましたが、親近感を感じて、イメージが変わりました。やはり自ら足を運んで現場を見るべきだと痛切に感じました。

 また、日本の少子化問題とも関係しますが、子供たちの数だけでなく、意欲とかハングリー精神などの面でも、灯火が揺らいでいるような感じがしますでしょう。次のジェネレーションになったときに、いま中東で活躍しているみなさんのあとに続くような日本人がこれから先いるかどうか、子供たちが逞しく育っているかどうかということがとても心配になります。そこが印象深かったですね。

牛尾 アジア人は貧しいときは立派だけれども、豊かになるとだめになる場合がありますね。昭和60年ぐらいまではみんな相当頑張ったのですが、いまは完全に失速してしまっています。

上川 私たちの世代、母たちの世代、そして娘たちの世代と、いま3世代ありますよね。うちの母が言うのですが、「私たちのときがいちばん幸せだったかもしれない。希望というか、頑張ろうという目標があって、それに向かって努力していく、そのしがいがあった」と。

 何もないところからつくり上げていくという意味で、非常に努力目標もはっきりしていたし、そのためには頑張れた。一生懸命働いて、子供たちに教育を、とそれは頑張ったわけですね。そのためには貯金もして、我慢しながらもこういうときにはドーンとお金を出しましょうというような、人生の豊かさのようなものがむしろあったのではないかという気がしますね。いまになってみると、何が豊かなのか何が幸せかというのがわからないと。

牛尾 そういうものを知ることも、実は政治の役割なんですね。教育の問題ではないと思います。国の総意というものをまとめていかないと。

上川 そうですね。現在の人口減少ということで言うならば、周りに子供たちの声が溢れて、公園で小さな子がよちよち一人歩きをしているのを、転ばないようにと、周りの大人が見守ることができるような、子供がどんなふうに大きくなっていくのかを、みんなで楽しむことができるような、そういう社会をつくりたいと思っているんです。ほんとうに大切なのはそうした社会をつくることであって、単に出生率を引き上げればいいということではありません。

牛尾 そうですね。ですからワークライフバランス(仕事と生活の調和)でも、そういう生活の中身の質を上げることなんですよね。それも個人主導の。行政がやるとそうでなくなってくるんですね。働いている時間とかそういう話ではないんです。そこのところがいま日本はどうして数量的になったのでしょうね。

上川 ほんとうに質ですよね。

ネットワーク型の子ども家庭省

山口(編集) 少子化もそうですけれども、高齢化の問題もありますよね。少子化対策担当大臣はあっても、高齢化対策担当大臣はない。これから日本をシステムとして考えていくと、高齢者の活力をもっと社会に取り込んでいくということも一方であると思いますし、日本という垣根を取っ払って考えれば、もっと外国の人に日本に入ってきてもらう、そういうことなども重要なのかなと思いますが。

上川 高齢者はこれからとても大事です。先日、新潟で開催された「G8労働大臣会合」に私も参加し、高齢者が生き生きと活躍できるような社会にということで、ワークライフバランスの重要性についてスピーチをしました。高齢者はすべて社会から守られる側なのだというふうに、一律に年齢で区切ってレッテルを貼るような社会はやはりよくないと思うんですね。

 ですから、いろいろな生き方を応援していく?。高齢者の中には働きたい方もいらっしゃるんですよ。80代になっても20パーセントぐらい働きたいという方がいらっしゃるんですね。そういう方たちが働けるようにしていかなければいけないし、働き方にもいろいろありますね。いまは核家族だから、地域の中で子育てのおばあちゃん役、おじいちゃん役をやるのでもいいんですよ。そういうイメージをつくっていくことがとても大事だと思うんです。

 私は少子化対策担当なのですけれども、若干違和感があって、少子化には少子化の対策、男女共同参画には男女共同参画のための施策というように別々に扱うことはできないと思うんです。私としては全部まとめて「子ども家庭省」というイメージで、一括りの中で仕事をしようと。ですから大臣就任直後の大臣訓示の際にも、「ネットワーク型の子ども家庭省」なのだということを言ってから始めました。そうすると全部の政策が繋がるわけです。

山口 高齢者のために何をできるのかを考えると、高齢者も子供も必要とするものは同じなんですね。シニアというと、また違ってくると思うのですけれども。

上川 世代間のワークライフバランスというのは、つまり支え合いですよね。その仕組みをつくっていくことがこれからとても大事です。

 ある人が定年になり職業生活から引退したとする。その時点で初めて、さあこれから何をしていこうかと考えても、何をしていいかわからない。でも、実はこういうケースは男の方の場合であって、同じ立場に立っても女性はもっと生き生きとしています。

 そういう意味では、やはり若いときから遊びも、そして働くこともベストな状態にするというか、その人の一番いい状態にバランスさせる習慣を身につけていかないといけないと思うんです。いざ高齢期になったときに、そういう習慣が身についていなければ、急には受け入れられないんですね。人生の中でもう一つのワークライフバランスを組み立てていく、そういった生涯をステージプランニングするようなことをやらないとだめですね。

女性議員としてできること

山口 女性議員として、とくに意識していらっしゃることは何かありますか。

上川 私はこれまでどちらかと言うと、女性議員だと言われることに若干抵抗を感じるような育ち方をしてきました。仕事についても、女性ということを意識したことがまったくなかったのですが、でも外から見るとやはり女性なんですね。私は私であって、女性の私ではないというような意識できましたが、女性局で女性のみなさんと一緒に仕事をしたりしているうちに少し考えが変わってきました。いまは「全国のおかあちゃんになりたい」と言っているんですよ。あまりそういうイメージが出ていないかもしれませんが、やはりみなさんの期待もあるだろうし、そこの部分はむしろ私の財産として大切にしていかなければいけないのだなと。女性議員であることに、何か変な言い方ですけれども、誇りを持つというか、そういう気持ちになってきました。

牛尾 上川さんはいろいろな議論の中に、女性でなければ感じないものを無意識のうちに持ちこまれているし、やはり女性でなければしないような発想もある。そして留学していらっしゃることから、海外から見た日本を知っていなければ持つことのできないような発想もある上、何のバックグラウンドもなく初代で選挙をして、七年半当選まで頑張った、こういうことがいちばん大事だと思うんです。

 そして家族が強い味方、お子さんが頑張ったという話をされたけれども、思い出しただけでも目頭が熱くなるという、それはとても大事ですね。ご主人がもっとも被害を被っているかもしれないけれども(笑)。そういう点でも上川さんは新しいタイプの政治家ですよ。

上川 政治の世界はなかなかわかりにくいので、自分が信じたことしかできないということでずっときたのですけれども、そういうふうに見ていただいているのはとてもありがたいことです。

牛尾 いまお宅は、ご主人が単身赴任で福井、ご長女は海外で、次女の方だけが静岡にいらっしゃるんですね。

上川 はい、父と母と一緒に。

牛尾 離れていても精神的に大家族なんですね。

 やはり気にかけ合うというのは強いですね。前は定期的ではなかったのですが、いまは年に1回か2回は家族旅行を必ずしようということで、子供たちのほうから「次の夏休みはどうする?」などと言ってくれます。自分たちで計画を立てて、インターネットでホテルの予約などもしてくれます。主人と私はアナログ的な時代の最後の世代なので、とても助かります(笑)。

牛尾 もちろんご主人も参加するのでしょう?

上川 参加します。主人がいちばん楽しみにしているかもしれません(笑)。唯一家族揃って行動できる機会ということで。主人は大学での同窓生でしたから、もう同志のようなものなんです。

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